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1978年4月5日、入所授産施設「雲仙愛隣牧場」の開設と共にコロニー雲仙はスタートしました。その時に頭に描いていたイメージがあります。
1960年に日米通商条約100周年祭があり、15歳だった私は少年大使として参加しました。
アメリカのあちこちで記念式典がひらかれる中、第36代ジョンソン大統領の牧場に招待されました。
飛行機でなければ回れない広さの牧場には、革製品加工工場等があり、その中に障がいをもった人達が働いている場所がありました。「これは、俺が作ったんだ」と自慢して色々見せてもらいました。私は左右にピストルが入る上等のガンベルトをもらい、本当にうれしかったです。
その頃の日本は、福祉という考えもなく、障がいをもった人達は普通の人間の扱いをしてもらえないような時代でした。座敷牢に入れられたり、農家の労働力として牛や馬みたいに田んぼでこき使われていたり…。
まったくの別世界に、日本の障がいをもっている人達もこんな生活ができればいいなと思いました。
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当時日本にあった知的障がい者についての法律は、身体障害者福祉法、精神薄弱者福祉法(後に「知的障害者福祉法」へ改正)のみでした。秘書をしていた国会議員と共に資料を集め、1970年議員立法により心身障害者対策基本法がスタートしました。
心身に障がいをもった人達をどう守るかについて日本で初めて出来た法律です。福祉施設を充実させて守ることが、この人達の幸せにつながるという方針の下、全国で入所施設の建設が始まりました。
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| 家族と共に「雲仙愛隣牧場」に住み込む。左が田島理事長。 |
法律を作った時は、入所施設を造ると、とても良い生活が出来ると思っていました。でも現実はそうではなかった。
施設に行って、一人ひとりと話をしてみると、口を揃えて言うのは「早くおうちに帰りたい。お母さんに会いたい」。北海道から九州まで13施設を回ってみましたが、誰も幸せと思っている人はいませんでした。
建物は立派で、職員の人達も活き活きと働いている。だけど、本人達はしょんぼりしている。それは何故か…。誰に聞いても分からないし、教えてもらえない。こうなったら自分で施設を造って、本人達から教えてもらうしか方法が無いと決意しました。
「雲仙愛隣牧場」に、私は家族と一共に住み込みました。すぐに入所施設の中で生活することが、いかに大変かということを身に染みて感じました。なぜなら、どんなに良い建物であっても、良い職員がいても、入所施設は「特別な生活」なのです。そこに入所している人が「早くここから出たい」、「早く家に帰りたい」、「早くお母さんに会いたい」と思うのは当然のことなのです。
一刻も早く本人達が安心して「ふつうの場所でふつうの暮らし」をできる仕組みを作ろうと決意しました。
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| 02年内閣総理大臣表彰受賞。 |
それからの30年はそのための戦いでした。
宮城県福祉事業団理事長だった2002年に「県立船形コロニー施設解体宣言」を発し、これが引き金となって、障がい者10か年プランの中から、入所施設の定員を増やすという項目がはじめて削除されました。長崎では2007年3月に入所施設「コロニー雲仙更生寮」と「雲仙愛隣牧場」を閉鎖。障害者自立支援法によって単身生活や結婚生活へ支援が出来るようになり、「特別な場所」ではなく、「ふつうの場所」で生活することが可能になりました。
自分が入所施設に住み込んで、なぜ心身障害者対策基本法が本人達から喜ばれないかが分かりました。それは福祉が本人達の幸せではなく、家族や周りの人達のためにあったからです。
誰のための福祉か。
常にその原点に立ち返りながら、「ふつうの場所でふつうの暮らし」を安心してできる仕組みづくりにこれからも取り組んでいきたいと思います。
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